今回は新連載・歴史探訪シリーズ第一弾。
なんちゃって!!
続くかどうかは「いいね!」の数次第というアバウトな取っ掛かり。
まずは身近なエリア発で、東戸塚駅からぶらぶらと歩いてみることに。
重度の花粉症である主婦ライター、帽子と眼鏡とマスクで一体誰だか分からない装いです。
東戸塚駅より環状2号線を越えて歩くこと約10分、
旧東海道の面影を色濃く残す一里塚があります。
境木地蔵から焼餅坂を降りた界隈になります。
一里塚って何だ!?
江戸幕府が東海・東山・北陸などの諸街道を整備
するため、慶長9年(1604年)に構築させたもの。
江戸日本橋を起点とし、1里(4km)ごとに造られました。
土を高く持った「塚」は旅人の道しるべとなりました。
一里塚の大きさは5間(約9cm)四方、
高さ1丈(約3m)が基準です。
保土谷宿と戸塚宿の間に位置しています。
旧東海道を挟んで東西に2つの塚が残っています。
東の塚は平戸村内に、西の塚は品濃村内にあり、
地元では一里山と呼ばれていたとか。
木立の中に一里塚
保存状態が極めてよい。
神奈川県ではほぼ完全な状態で残る唯一の遺跡で、
かなり貴重なものであるらしい。
現在でも道の両側に塚があるのは品濃だけ。
昭和40年7月19日に県指定の史跡として認定されました。
旅人が、かご賃などを計算する基準となったり、
移動の距離を測る目安としても役立ったそう。
遠くから見えるよう目印として塚の上に榎や松の木が植えられ、
旅人にとって休息の場所だったそうです。
夏は日差しを遮る木陰となり、冬は雪や寒風から身を守ることができたのでしょうね。
近辺には「焼餅坂」という名前の坂道も残っており、
茶屋なんかもあったかもしれません。
品濃一里塚公園こっち→という案内に従って行こう。
公園には民家との間の細い道を入っていきます。
付近にはかつて通称「下馬薬師」という薬師堂があったとの言い伝えがあり、
通行の馬が薬師を恐れて暴れるため落馬事故が相次いだため
慶安3年(1605年)永山谷東福寺(平戸)に移設されたそうです。
品濃一里塚公園と表示がありました。
そのままの名前ですね(^-^;
なんとなく広場になっているようです。
周りはすっかり住宅地になっていますが、ちょっと寂れているかな。
奥に見えるのは、環2を挟んだ向こう側(東戸塚駅側)にあるマンション。
見晴らしはありませんが、小高い場所になっています。
公園の片側は、うっそうとした雑木林。
とても静かで、近くに環2があるとは思えない雰囲気。
立派な楠や榎の根っこなんかもあり、
昔はどんな様子だったのかな~と思いを馳せ・・・
道を挟んで反対側にも案内板が。
江戸日本橋から9番目、旧東海道の付属施設として
かつては人々の往来がさかんだったのでしょう。
ここは4㎞×9番目=出発点から36kmということになりますね。
こちら側(平戸側)は新しい公園になっており明るい感じ。
近所の子どもたちの遊び場として利用されています。
奥にこんもりと見える林は、先ほどの雑木林です。
公園の脇にひっそりと石仏がいました。
子どもたちの行く末を見守っているかのよう。
かつては旅人たちの安息の場であった品濃一里塚。
現在は近隣の市民の憩いの場となって親しまれているのでしょうね。
歴史を感じられる場所が身近にあります。
お散歩がてらぶらっと歩いて当時を偲んでみるのも一興です。