柏尾川の桜並木
-戦前-
写真は、坂本写真スタジオさんにお借りしたもので、戦前に撮影された柏尾川の桜並木の貴重な姿。
当然モノクロ写真なので、色こそ伝えられないが、枝々に咲き溢れる花びらをたたえた桜の木は、今と変わらず、当時の人々の心を強く惹きつけたのだろう。
柏尾川は、今も昔もこの地域に住む人々の心の拠り所といっても過言ではない。今回は、そんな戸塚のシンボルとも言える柏尾川の桜並木の小さな歴史を紐解いて、紹介していきたい。
読んだ方が今よりもっと柏尾川の桜を、そして戸塚を好きになってもらえたら嬉しい。
柏尾川は関東屈指の桜の名所だった
柏尾川の桜並木の歴史は古く、江戸時代末期にまでさかのぼる。横浜開港の3年前、1856年(安政3年)に大雨で壊れた堤防を改修した記念に植樹された。その時の桜は明治初期に枯れてしまったが、のちに再度植樹されたそう。
この桜も明治の終わりに行われた耕地整理の際に一旦伐採されることになったが、工事の完成を祝って1000本の苗木が植樹された。
その時の桜が最盛期となったのが、昭和初期。この頃には桜が土手の両側に植えられ、堤はさながら「美しい桜のトンネル」だったそう。
せき止めた川には屋形船が浮かび、土手には、酒やおでん、飴細工などの屋台が50軒以上も出て、東京や横浜中心部からも大勢の花見客がやってきて、たいそう賑やかだったと言われている。
かの歌人、与謝野夫妻もその頃の柏尾川の桜について一首詠んでいる。
ながながと三万人の人影をまじえて霞む堤の桜
(与謝野鉄幹)
咲く花の空につづける幕打ちて正しく走る柏尾川かな
(与謝野晶子)
柏尾川の桜は、名実ともに関東屈指の桜の名所として有名になっていたのだ。
戦争による伐採、町の有志による植樹
関東屈指の桜の名所として知られた柏尾川の桜の木も、戦争によって燃料や材料として次々に切り倒され、全滅してしまう。
戦後、昭和28年(1953年)に、戸塚の商店会など町の有志が中心となり、ソメイヨシノ2000本を植えたのが、現在の桜並木の一部となっている。
昭和32年(1957年)には、桜の開花時期の4月に「戸塚桜まつり」が初めて開催される。「戸塚区民囃子」の歌にのって、戸塚駅から旭町通り、柏尾川堤、そして柏尾川河川敷へと巡る「花見踊りパレード」のほか、柏尾川河川敷を会場に太鼓演奏などの地域芸能が行われ、現在も続いている。
昭和39年(1964年)第8回戸塚桜まつりの様子
その後、周辺の都市化が進むにつれ、今度は洪水の被害が大きくなってきた。そこで、昭和51年から洪水を防ぐための大規模な改修工事が行われることに。
当初は桜を切る予定だったが、保存の声が区民から上がり、約200本が残され、500本あまりを植え直した。
昭和52年撮影の柏尾川の桜並木
これまで紹介してきたように、植樹と伐採を繰り返してきたのが、柏尾川の桜。現在、寿命を迎えつつある桜並木を守ろうと、区ではボランティアの「戸塚桜セーバー」と協力し、桜の維持管理をしている。
単に新しい木に植え替えるのではなく、現存する桜を回復させるといった方針で進めているという。また、講座などを開催することで、小学生や地域住民に理解を深めてもらう活動も行っており、後世に美しい桜並木を残していこうとしている。
さいごに
町に刻まれた年輪を知れば、未来の選択に活かすこともできる。桜は減ってしまったが、昭和初期の頃のような賑わいを取り戻す未来を自分たちでつくることもできる。過去を知り未来を夢想することで、過去にあった様々な出来事も、その時代を生きた人たちも、輝き続けられるのかもしれない。
昔から変わらず住み続けている人も、新しくこの地にやってくる人も、みんなが「この町に住んで良かった」と思えるようになることを願いつつ、時代のうねりの中で一瞬一瞬の輝きが見えなくなってしまう前に、たくさんの人たちの心にわずかでも残しておきたい。
今年の柏尾川の桜並木
<参考文献>
横浜市戸塚区役所 総務部区政推進課広報相談係 平成16年7月発行 『柏尾川物語』
横浜市戸塚区役所 総務部区政推進課広報相談係 平成21年3月発行 『写真集 とつか70年目の風景 1939〜2009』
<写真協力>
坂本写真スタジオ
横浜市戸塚区吉田町1133