かつて東海道の宿場町として栄えた戸塚。
住んで?年になるけれど、恥ずかしながら歴史のコトあまり知らない主婦ライター。
「なぞ解きウォーク」って楽しそうなイベント!
しかも、こども向きじゃないところがイイ。(シニアっぽい!?)
お願いしてイベントに同行取材させていただくことに♪
第3回とつか宿場まつりプレイベント
戸塚宿なぞ解きウォーク
10月はじめの日曜日、
戸塚区総合庁舎3階 情報コーナー前で集合しました。区外からも歴史好きなオジサマが参加されていました。それから若いんだけどピンク色のアヤシイお兄さん(眼鏡もピンク!)も一人で参加していました。一体何者?
名所旧跡を散策する団体「戸塚見知楽会」の主催でした。
メンバーはブルーのキャップで統一。(ベイスターズっぽい?)
皆さん、知的な印象の素敵なオジサマたちです♥
午前・午後の設定があり、さらにA班とB班の2グループに分かれ、
十数名の少人数で和気あいあいと出発!
東海道五十三次は江戸時代に整備された五街道のひとつで、江戸~京都まで53の宿場を差します。戸塚宿は日本橋を起点として5番目の宿場町。浮世絵の舞台としても有名ですが、名所・旧跡が多くて歩き甲斐があるというもの!あたなも最後にクイズに挑戦してみてくださいね!景品はありませんが・・・
コースは以下の通り・・・
(スタート)戸塚区役所~①JR戸塚駅東口デッキ~②駒立橋~③妙秀寺~④大橋~⑤吉田電車の見える丘公園~⑥澤邊本陣~⑦八坂神社(ゴール)
説明を受けながらゆっくり歩いて、約1時間半くらいの行程でした。
①JR戸塚駅東口デッキ~
明治5年に新橋~横浜間(現在の桜木町)で最初の鉄道が開業、明治20年には横浜~国府津までが一斉に開通しました。それと同時に戸塚駅も開設され、2年後には神戸まで、明治24年には上野~青森までと急速に路線を延ばしました。そして明治38年に本州全土がつながりました。
戸塚駅の現在の利用客状況はJRおよそ12万人、地下鉄およそ8万人。県内では横浜・川崎・武蔵小杉に続く4番目の大きな駅となっています。(以前は3番目だったが武蔵小杉に抜かれた・・・)
東口の歩道橋を降りて、柏尾川沿いを歩きました。今年は雨が多いですが、この日は天候に恵まれて汗ばむほどの陽気。明るい陽射しを受け、柏尾川の水面がきらめいていました。
柏尾川は全長12kmの2級河川。流れはゆるやかですが、高低差がないため大雨で氾濫しやすく、堤防が高くされたのは皆さんご存知ですよね。柏尾川の代名詞といえば桜。江戸時代に植えられましたが、太平洋戦争の折に燃料にするため、一度すべて伐採されてしまいました。
競馬場があった!
昭和8年に現在のHITACHI(写真右手)と東戸塚小学校のある辺りに、川崎に次いで県下2番目の競馬場がOPEN。一周1600mの大規模なもので、3・9月の年2回、競馬ファンで賑わっていたそうです。しかし、戦争がはじまり東京で初の空襲があった昭和17年には軍馬用の訓練所として使われることになり、競馬場の機能は汲沢へ移転。その後も戦費を稼ぐために競馬が行われていたようです。しかしGHQの指令で競馬場は県に1箇所のみとされたため、川崎の方を改築して残すことになり、汲沢の競馬場は昭和25年に幕を閉じました。
②駒立橋~
当時、川を挟んで厩舎があり、レース前に身支度をして橋を渡って出かけたことから、この橋は「駒立橋」と名付けられました。(駒=馬)
戸塚駅ははじめ宿場町のあった西口側がメインでしたが、競馬場の利用客が増えたことにより、昭和12年に東口が増設されました。
③妙秀寺~
1350年代の日蓮宗のお寺。お正月のイベント「戸塚宿七福神巡り」のひとつで、弁財天を祀っています。
『かまくらみち』
火災により資料や建物は被害に遭いましたが、この石造物は浮世絵にも描かれており、当時の面影を色濃く残す貴重なものです。後で出てくる「大橋」のたもとから川土手を進むと鎌倉道につながるのですが、そこにあった道標が近くの妙秀寺に移設されたという説が有力。遠い昔に旅人が行きかう様子を眺めていたに違いありません。
『一里塚』
妙秀寺から旧道に出て少し歩くと、「吉田一里塚」が目につきました。距離をはかる目印として4kmごとに建てられたもので、ここは10番目。朝、日本橋を出発した旅人が約40km歩いて、戸塚宿を第1日目の宿泊地にしていたのでしょうね。(健脚派は藤沢まで行っちゃったかも?)また、一里塚は荷物や籠の運搬代金の目安として活用され、見つけやすいよう小高い場所や榎・松・桜など木の下に定められていだんだとか。余談ですが、この「一里塚」のシステムは有用度が高く、江戸幕府のヒット商品と言われているそうな。(笑)
「吉田大橋」じゃなく、ただの「大橋」だった・・・
④大橋
信号機に「吉田大橋」とあるから、この橋の名前だと思っている人も多いかもしれませんが、正しくは「大橋」。江戸時代に架けられた当時は長さ18mで幅4.5mと現在の3分の1ほどの大きさで、昭和61年に架け替えられました。欄干には戸塚宿を描いた浮世絵が4箇所見られ、照明は大名行列の槍持ちが持つ「毛槍」をイメージしてデザインされているので、また通る機会があったら注意してみてくださいね。(さりげない戸塚宿アピールで知らなかった!)
銘板:初代歌川広重画「東海道伍拾三次之内戸塚」(県立博物館所蔵)
ゆったりと弧を描く美しい木橋や「こめや」が描かれている有名な絵をご存じの方も多いでしょう。 東海道と鎌倉道の分岐点にあって賑わいをみせていた「こめや」はお茶屋・旅籠を営んでいました。ちなみに、この絵には初版と再版があり、馬から降りているのか乗るところなのか?異なる部分も見られ、ファンの間では色々な推測がされているようです。
開かずの踏切があったアンダーパスの上を通り、
戸塚駅の東側へ渡ります。
車では通るけれど、歩いて渡るのは初めて!
アンダーパスの上は公園
単なる広場のようで何もないですが。
キャッチボールをする親子を発見。
こういうふうになっていたとは・・・
⑤吉田電車の見える丘公園
厳密にいうと公園は3つに分かれており、戸塚町・矢部町・吉田町それぞれに属しているらしい。
徳川家康の頃に「問屋場」(といやば)という24時間営業のターミナル的な施設が設けられ、輸送業や宿泊手配などの役割を担っていました。はじめは戸塚町がやっていましたが、需要が高まるにつれて問屋場は飛脚や馬で溢れ返り、戸塚町だけでまかない切れなくなってしまったので矢部町・吉田町も協力することになったという。吉田町に飛地があるのは当時の名残りのせいだったんですね!
駅前の歩道橋には神奈川県の宿場町の名前が入ってた。
何度か上り下りしていたのに気づかなかった・・・
芸が細かいというか地味というか。
このあと旧道沿いに八坂神社まで向かいました。
『内田本陣跡』
本陣とは、当時その土地の有力者の邸宅が、大名や公家など高貴な身分の方の宿泊所として使われたところ。旅館とは違い、謝礼程度しか受け取れなかったそうですが・・・
『脇本陣跡』
脇本陣は、本陣の予備として設けられた宿泊所。戸塚には2つの本陣と3つの脇本陣があり、宿場町の規模によって数が決まったらしい。ちなみに、一般の人が泊まる旅籠は大小あわせて75ほどあり、県内では小田原の次に規模が大きいものでした。
⑥澤邊本陣跡
当時の名家として知られた澤邊家の当主は、戸塚が宿場町として選定されるように幕府に強く働きかけ、その功績が認められました。京都御所~江戸城間を天皇が移られた際に、3回も宿泊されたことで知られているそうです。よく見ると建物内の間取り図まで記されています。戸塚消防署の近くですよ~。
⑦八坂神社
いよいよゴール☆
1572年創建。7月14日のお札まきでお馴染み、「お天王さま」として親しまれている戸塚宿の鎮守。ここは高札場(こうさつば)として使われていました。高札場って?幕府や領主が定めた掟(ルール)を板札に書いて掲げておくための場所のこと。
クイズに解答!
- JR戸塚駅の1日あたりの乗車数は?
- 昭和25年まで戸塚にあった施設は何でしょう?
- 妙秀寺にある江戸時代の石造物は何でしょう?
- 江戸時代の大橋の長さは何メートル?
- 戸塚宿に本陣は何軒ありましたか?
- 江戸時代に八坂神社の鳥居そばに設置されていたものは?
最後に答え合わせを一応して、景品をゲット!
戸塚ならではのグッズ
とってもレア?ウナシ―のピンバッジと渋いメモ帳。
参加費無料でとっても楽しませていただきました。
★次回のイベント告知★
11月25日(土)第2回とつか歴史探訪ウォーキング
~鎌倉道へ向かい上倉田から下倉田へ~
古刹や民俗文化を訪ねて失われた農村の原風景を体感
9:15~9:30受付/所要時間2時間半程度
費用300円/抽選50名
記念の一枚(*^^)v
午前中のB班の皆さん。
さすが戸塚見知楽会の企画、初心者向けに噛み砕いた名ガイドさんの説明も分かりやすく、たくさんの発見とともに興味深く散策することができました。ありがとうございました!知らないことだらけの戸塚の町。またこんな機会があったら、シニア向きと思わず、いろいろな世代の方が参加されると面白いのではないでしょうか。
主催:とつか宿場まつり実行委員会(戸塚見知楽会)
MAIL:Totsuka15michi22@gmail.com
問合せ:080-5545-4163(9~17時)
後援:戸塚区役所